(映画感想)「ロケットマン」(2019年)
この映画は、伝説的なミュージシャン、エルトン・ジョンの半生を描いた作品だ。
劇中に流れる歌がどれも素晴らしいことはもちろん、ジョンの抱える孤独と苦悩が余すことなく描かれていた。
成功すればするほどジョンを利用しようとする人が群がってきて、彼を一人の人間として対等に向き合ってくれる人がいなくなっていく。
そして、おそらくジョンが最も愛情を求めていた両親でさえ、彼の人格を見ようとしない。
そうやって深く傷ついていった結果、心を開ける数少ない友人を、自分の手で拒んでいく様は見ていてつらかった。
彼を物のように扱う周囲の人間に憤りを覚えたが、きっと彼らを批判してもしょうがないのだろう。
映画には描かれていないが、彼らにも、そのような人間になってしまうような様々なつらい経験をしたのだろうから。
どんな経験をしようとも、人としてまっすぐに生きていくためには、どうすればよいのだろう。
「無」とは何だろう?
「無」というものを思い浮かべることはできるだろうか?
僕が「無」と聞くと、例えば真っ白い空間を思い浮かべる。だが、それだって「真っ白い空間」が有るのであって、絶対的な「無」ではない。
そうすると、絶対的な「無」というものは観念できず、人間が観念できるのは相対的な「無」に限られるのではないか。
それでは、相対的な「無」とは何だろう。相対的という以上、それは比較する対象があって初めて成立するものだ。
例えば、目の前のある空間にりんごがあるとする。それを食べてしまえば、そこからりんごがなくなる。これを言い換えると、その空間に相対的な「無」が生じたといえるのではないか。
つまり、相対的な「無」は「移動」とセットの概念だということだ。
それでは次に、移動させるものをりんごから、全空間に広げてみるとどうだろう。こうなると、もはやその空間は移動する先がなくなってしまう。というよりも、移動前と移動後で同じ状態を指すことになる。
言い換えれば「全空間=無」と言えることになるのではないだろうか。
自分の頭で考える
自分は何のために生きているのか。これからどう生きていけばいいのか。幸せとは何か。宇宙の果ては一体どうなっているのか。
心も体も不安定だった思春期ごろから、そんなことを考え始めた。こんなことを考えなくても生きていけるし、一銭の徳にもならない。
だけど、どうしても考えることをやめられず、思春期を引きずりながら、気づいたら社会人になっていた。
いまやネットには役に立つ情報があふれていて、お手軽にあらゆる情報を入手できる。それを読んだり見たりするのは楽しいし、実際にいろんな場面で助けてもらっている。
だけど、思春期から考え始めたこれらの問いには答えなんてなくて、自分の頭で考えるしかないんじゃないか。そうして出た答えが、他人から見てどれだけばかげているとしても、自分にとって心から納得できる答えを見つけたい。
僕の好きなMr.Childrenの歌詞に、「悩んだ末に出た答えなら15点だとしても正しい」というものがある。
いろんな本を読み、いろんな人と話し、いろんなことを経験し、そしてそれらを含めて自分の頭で粘り強く考えて、悪あがきしながら生きていきたい。